パラリンピックの父と呼ばれた医師は誰?中村裕の足跡と太陽の家を調査【アンビリバボー】

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こんばんは。

管理人ひなたです。

10/15放送のフジテレビ番組

『奇跡体験!アンビリバボー』に、

パラリンピックの父と呼ばれた医師

中村裕(ゆたか)さんが特集されます。

日本の障害者スポーツ発展の先頭を

走っていたのは中村裕さんでした。

1964年の東京パラリンピック

きっと中村裕さんがいなければ

実現していなかったかもしれません。

そんな中村裕さんの足跡と、

創立された太陽の家について

調べてみました。

興味がある方は、

最後までご覧いただければ嬉しいです。

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1.パラリンピックの父と呼ばれた医師は中村裕さん!

中村裕(ゆたか)さん

詳しくはwikiを♪

1964年の東京パラリンピック

日本選手団団長を務められています。

この大会のために誰よりも奔走し、

そして成功へ導かれました。

その翌年には、

障害者の自立と就労を支援する

太陽の家」(大分県別府市)

を設立されました。

障害者スポーツの復興

障害者の社会復帰

に大きな貢献をされています。

私たちが生きている今は、

こういう知らない人たちの

※私は知らなかった(汗)

頑張りがあってこそだなと

つくづく感じます。

これらの貢献により、

日本のパラリンピックの父

呼ばれている医師・中村裕さん。

なぜ整形外科医であった

中村裕さんは

障害者スポーツの復興

障害者の社会復帰

に尽力されたのでしょうか?

2.中村裕さんの足跡を

たどりながら、ひも解いて

いきたいと思います。

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2.中村裕さんの足跡!

【1960年】

国立別府病院整形外科科長

#長い

を務めていた中村裕さんは、

リハビリテーション研究の為

欧米に派遣されました。

#欧米か(笑)

その際、英国でグットマン博士

に出合ったことをきっかけに

障害者スポーツの復興

がスタートしました。

グットマン博士は

手術よりスポーツ」との治療方針で、

脊損患者の85%を約半年で

社会復帰させる実績をお持ちでした。

よく分かりませんが、

とにかくすごいドクターだった

ことは素人ながらに分かります(汗)

そしてこの方針を中村裕さんは

日本に持ち帰ったのです!

中村裕さんの凄いところ

・思い立ったら即実行

・どんな困難にもひるまない

なるほど・・

猪突猛進の頑固者♪

ですね(笑)

翌年の

【1961年】

には大分県障害者体育協会を設立。

その年の秋には

第一回大分県障害者体育大会を開催。

【1962年】

ストークマンデビル大会に

※昔のパラリンピックの名称

2人の車いす選手を参加させた。

この際中村裕さんは資金調達に

苦しみ、自らの車も売り払っている。

【1963年】

オーストリアで開かれた大会に

5人の選手を送った。

【1964年】

東京パラリンピックを実現させ、

成功に導いた。

グットマン博士が来日している。

【1965年】

全精力をつぎ込み「太陽の家」を設立。

・保護より機会を

の考えのもと、障害者が仕事をして

自立していく場を大分別府市に作った。

多くの協力を得て、愛知や京都など

5か所に事業本部を設ける。

即実行タイプの中村裕さんは

上記の通り凄いスピードで

色々実現されていますね!

驚き以外ありません。

そんな中村裕さんは

情にもろく、

健常者には厳しく、

障害者にはいつも優しかったようです。

中村裕さんの目的は、

障害者の方々の社会復帰!

その手段としてスポーツが

あったようですね。

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3.中村裕さんの太陽の家とは?

太陽の家は障害者が働き、

生活する施設であり、

地域社会の一住民として

普通に暮らしています。

らしいです(汗)

恥ずかしながら初めて知りました。

規模もとても大きと思います。

またシンボルマークには

「麦」と「太陽」がデザイン

されており、

太陽の家は麦のように踏まれても

踏まれてもぐんぐん成長する

ことを目指しているそうです。

4.まとめ

パラリンピックの父中村裕さん

について調査してみました。

パラリンピックの歴史の

1ページ目を覗いた気がします。

2021年無事に開催されることを願います。

最後までご覧いただき

ありがとうございました。

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